産育食ラボでは食べることが次世代に与える影響について、科学的な見地からお伝えしています。
「ご存知ですか、DOHaD説」でもお伝えしたように、妊娠中の栄養状態はお腹の赤ちゃんの健康を生涯に渡って左右すると考えられています。これはイギリスのデヴィット・バーカー博士らの研究に基づくもので、現在では「DOHaD説」と呼ばれています。
しかし赤ちゃんの健康に影響を与えるのは、必ずしもお母さんの栄養状態だけではありません。最近特に指摘されているのが「妊娠中のお母さんのストレス」です。今回はお母さんの精神状態が赤ちゃんに与える影響について、最新の研究からご紹介します。
「マタニティーブルー」という言葉をお聞きになったことがあると思います。出産後ちょっとしたことで涙が出る、集中力がなくなる、気分が落ち込む、不安になる、眠れないなどが典型的な症状です。主な原因は妊娠出産に伴うホルモンの変化ですが、さらに「母親になる」という環境変化が相まって、精神状態が不安定になるためだと考えられます。しかしマタニティーブルーは出産経験者の約30%から50%の方が経験するもので、決して病気ではありません。出産後3日目から10日くらいに症状が出ることが多く、たいていの場合には約2週間で自然に改善します(※1)。
これに対し、出産後1カ月ほどしてから不眠や気分障害、食欲不振などのうつ症状が出ることがあり、これを「産後うつ」と呼んでいます(※1)。
産後うつはお母さんだけでなく、子どもの精神状態にも長期に渡って影響を与えると報告されています。イギリスで行われた調査によると、母親が産後うつを経験した場合、その子どもが16歳までにうつ症状を示す割合は40%にも上るそうです(※2)。産後うつを経験しなかった母親の子どもではその割合は12.5%なので、子どもの心への影響は決して少なくありません。 。
産後うつは出産を経験された方の約3%が発症すると言われ、重症化すると長引くこともあります。該当する症状がある方は早目に医療機関で受診しましょう。
また最近心配されているのが、妊娠中のお母さんの精神状態が子どもに与える影響です。妊娠中にはホルモンバランスの変化や、体調の変化が起こります。また妊娠にともなって仕事から離れたり、食生活が変わったりするなど生活環境の変化も経験します。さらには出産することやお母さんになることを不安に感じるなど、妊婦さんがストレスを抱える要因はたくさんあります。周囲の方の理解や助けで妊娠の不安を期待に変えられればよいのですが、相談する相手がいない場合などには気分の落ち込みに拍車をかけてしまい「うつ病」に陥る恐れもあります(※3)。
では妊娠中のお母さんの精神状態は、生まれてくる赤ちゃんにどのような影響があるのでしょう。
妊娠中のストレスや不安感は胎盤への血流に影響することから、お腹の赤ちゃんの発育に少なからず悪影響を及ぼすと考えられます。妊娠中にうつの症状を示したお母さんから生まれた1歳半の赤ちゃんを調べると、行動や認知能力に遅れのある割合が高いことがわかりました(※4)。また4歳の時点でも、行動や感情表現に問題を示す割合が高いことも報告されています。
それだけでなく、妊娠中のうつの影響は長期に渡ることが明らかになりつつあります。イギリスのチームの発表によれば、妊娠中にうつ症状のあったお母さんから生まれた子どもが、成人する頃までにうつ症状を訴える確率は、うつ症状を示さなかった母親から生まれた子どもと比較して3.4倍高くなるそうです(※5)。
さらに同じ調査から、妊娠中にうつ症状のあった母親が幼児虐待を加える確率は、うつ症状を示さなかった母親より2.4倍高いことがわかりました(※5)。
妊娠中にうつの症状を示した人ほど、産後うつを患いやすいこともわかっており、健全な精神状態を保つことは、赤ちゃんの将来の健康のためにもたいへん重要であることがわかります。
妊娠期また出産を通して、少しでも気になることや不安なことがあれば、かかりつけのお医者さんに相談してみましょう。また産婦人科や自治体で妊娠セミナーを行っているところもたくさんありますから、ぜひ積極的に出かけてみましょう。同じような悩みを抱える方と話をするだけでも気が楽になり、出産を前向きに考える助けになることでしょう。
妊娠、出産そして子育ては想像以上にたいへんです。初めてのお子さんならなおさらでしょう。一生懸命に頑張るお母さんほどプレッシャーを感じやすいもの。そんなストレスを少しでも軽くするために大切なのは「食生活」、そして「睡眠」です。この項ではお母さんの気持ちを安定に保つために必要なことについて、考えていきましょう。
妊娠中の食生活はなかなか難しいものです。つわりで思うように食べられないときがあると思うと、やたらとお腹が空いて何でもいいから食べたくなる時期もあります。自分でコントロールすることが難しく、食べることそのものをストレスに感じる方もおられるでしょう。
最近の報告によると、妊娠期に乱れた食生活を送っている方は、ストレスを抱えやすいのだそうです(※6)。また妊娠期の乱れた食生活は、出産後、肥満につながりやすいとも報告されています(※6)。お母さんの不摂生は赤ちゃんの発育を妨げるだけでなく、お母さん自身の気分の乱れにもつながるというわけです。
「規則正しい食生活が大事なのはわかるけれど、ではどんなものを食べればいいの?」、と途方に暮れる方もおられるでしょう。
妊娠中はお腹の赤ちゃんのことばかり考えてしまいがちですが、お母さん自身にとっても栄養摂取は重要です。しかしそれほど難しく考えることはありません。お腹の赤ちゃんの発育に欠かせない栄養素は、実はお母さんの健康維持にも大切なものばかりなのです。
愛媛大学大学院医学系研究科の三宅吉博教授らのグループでは、妊婦さんの栄養と「うつ症状」との関連についての疫学的調査を行いました。1745人の日本人の妊婦さんについて調査を行ったところ、妊娠中にうつ症状を患った方は19.3%でした。また以下の栄養素を積極的に摂取していた妊婦さんは、うつ症状の割合が有意に低いことがわかりました。
カルシウムは乳製品に多く含まれますが、特にヨーグルトを積極的に摂取していた妊婦さんは、うつ症状になる割合が低いことがわかりました。またDHAやEPAは魚類に多く含まれる栄養分ですが、魚を食べている妊婦さんもうつ症状になる割合が低いことがわかりました。
反対に、うつ症状になる割合が高くなるのは、脂肪分や飽和脂肪酸を多く摂取していた妊婦さんのグループでした。飽和脂肪酸はヤシ油やパーム油、ココナッツパウダーに多く含まれます。さらにバターやラードなどの動物性脂肪、肉の脂身にも多い成分です。またショートニングやチョコレート、ホイップクリームなどのケーキの材料にも多く含まれるので、くれぐれも食べ過ぎには気をつけましょう。
さらに海外の研究から、「鉄分」の摂取によって産後うつの症状が軽減することがわかっています(※10)。
鉄が含まれるタンパク質を「ヘムタンパク」と呼びます。赤血球に含まれるヘモグロビンは代表的なヘムタンパクで、体中の細胞に酸素を運ぶ役割があります。このようにヘムタンパクは体内で重要な役割をしています。
「チトクロームc」もその一つです。チトクロームcは細胞の中で電子の受け渡しを行い、そこからエネルギーが作られています。さらにチトクロームcが不足すると、うつ症状の原因になることが報告されています。ラットを使った実験で、鉄が不足すると脳の「海馬」と呼ばれる領域でチトクロームcの合成が出来なくなることが観察されました(※11)。海馬は記憶や情動に関わる領域ですから、うまく機能しないと精神状態に影響が出ると考えられます。また鉄はドーパミンやGABA、セロトニンなどの神経伝達物質の代謝経路にも関わっていることから、鉄不足による脳や神経への影響は大きいと考えられます。
お気づきのように、これらの栄養素は全て胎内の赤ちゃんの発育に欠かせないものばかりです。詳細は他稿に譲りますが、これらの栄養素のどの一つが欠けても、お腹の赤ちゃんは正常に発育しません。「赤ちゃんのために。。」と思って摂る栄養素は、実はお母さんの気分を安定させることにも役立っているのです。
上記に挙げたDHAやEPAなどの「オメガ3脂肪酸」そしてビタミンDは、妊娠に関わらず、一般的にうつ症状を軽減することが指摘されています。その理由として、これらの栄養素が「セロトニン」の合成と働きを促すためだと考えられています(※12)。セロトニンとは神経細胞間の情報を伝える神経伝達物質で、体温調節や感覚調節、行動や記憶、摂食それに睡眠など、多くの活動に関わる重要な物質です。
注目すべきなのはセロトニンが「気分」に関係していることです。セロトニンの合成分泌が安定していると、「リラックス」して気分が安定します(※13)。反対にセロトニンの分泌や合成がうまくいかないと、うつ病の原因になるとされています。
セロトニンレベルを正常に保つことは、妊娠中の気分の安定維持にも大切です。セロトニンを含む食物ももちろんありますが、それらを直接食べても消化管を通るときに分解されてしまいます。そのため、セロトニンの素になる「トリプトファン」というアミン酸を積極的に取り入れましょう。セロトニンはトリプトファンから合成されるため、トリプトファンが不足すればセロトニンは合成されません。
トリプトファンは「必須アミノ酸」と呼ばれるアミノ酸の一つで、人の体の中では合成することができません。そのため毎日規則的に食事から摂取する必要があります。
トリプトファンを多く含むのはタンパク質です。特に大豆製品、乳製品、ナッツ類、かつお節には多くのトリプトファンが含まれています(※14)。またセロトニンが合成されるには他の栄養素も不可欠です。魚に多く含まれる「オメガ3脂肪酸」や「ビタミンD」、小麦やイモ類に多く含まれる「ビタミンB6」は特に重要とされています。
これらの食品はどれも日常食べているものばかりではないでしょうか?セロトニンを増やすために特別なものを食べる必要はないのです。大切なのは様々な食品を「バランスよく食べる」ことです。いろいろな栄養素を含む食品をうまく組み合わせて、上手にセロトニンレベルを保ちましょう。
妊娠期や出産後に不眠を訴える方は少なくありません。ノルウェーで行われた調査では、妊娠32週目の妊婦さん、また出産後8週間のお母さんのグループのどちらでも、不眠を訴える割合は約60%にまで上りました(※15)。
不眠はホルモンバランスの変化などが原因だと考えられますが、妊娠中に不眠の症状があると、出産後2年たっても不眠の症状が出やすいとのことです。しかしこの時期の不眠は産後うつを招きやすいと考えられ(※16)、できるだけ早いうちに治したいものです。
上記に述べたセロトニンは体内時計とも深く関係しています。セロトニンから合成される「メラトニン」というホルモンは、「眠気」を促す作用があります。メラトニンは約24時間ごとに合成分泌され、私たちを健やかな眠りに導いてくれます。日中はセロトニン、暗くなってからメラトニンが合成・分泌されることで生体リズムが保たれます。セロトニンを意識した栄養摂取が、妊婦さんやお母さんの気分を安定させる理由はここにもあるのです。
不思議なことに真夜中の授乳や夜泣きなどで睡眠時間が少なくても、出産直後のお母さんはそれほどストレスを感じないようです。その理由は、赤ちゃんのお世話をすることを「喜び」と感じるからだと考えられています(※17)。お母さんとはそれほど赤ちゃんのために尽くす存在なのですね。でも寝不足が続くといずれお母さんが疲れ切ってしまいます。寝る時間を削って家事を完璧にこなすよりも、今はご自身の健康が第一です。赤ちゃんと一緒に昼寝の時間を取るなどして睡眠不足にならないよう、体調管理に努めましょう。
最後に、お子さんがすくすく伸び伸びと育つ秘訣は、何といってもお母さんの気持ちが安定していることです。お母さんがいつもイライラしていれば、子どもは例えまだ小さくても気配を察して萎縮してしまいます。子育ては山あり谷ありの長いレースのようなもの。最初から一生懸命になってしまうと息切れしてしまいます。悩み事があるときは自分一人で背負いこまず、周りの助けも借りて上手に息抜きしながら、楽しい子育てライフにしていきましょう。